ICUの特別招聘教授である吉川元偉先生にインタビュー Part 1

今回のICONfrontインタビューでは、ICUの特別招聘教授である吉川元偉先生(ID74)にインタビューをさせていただきました。

ICUの学生時代はカナダハウスに在寮されていた吉川先生は、1974年にICUを卒業された後直ちに外務省に入省され42年間日本の外交官として活躍されました。4年前に特別招聘教授としてICUに戻られ、国連・国際機関と国際関係をご専門に教鞭をとられています。

今回のPart1では、吉川先生がICUご卒業後どのようなキャリアを築かれたのか、外交官を志したきっかけ、学外においても様々な組織に所属されて感じることについて伺いました。


吉川先生の略歴

1951年 奈良県生まれ。

県立畝傍高校時代、AFS奨学制度にて米国に留学。

74年 国際基督教大学ICU卒業と共に外務省に入省し、2016年に退官するまでの42年間勤続。
そのうち本省勤務15年、在外勤務27年。

外務本省では、国際機関第二課長、国連政策課長、経済協力局審議官、中東アフリカ局長などを歴任。
在外では、スペイン研修、在アルゼンチン大使館、在英国大使館、OECD代表部、在タイ大使館、国連代表部などに勤務。
2006年より、駐スペイン大使、初代アフガニスタン・パキスタン担当大使、経済協力開発機構(OECD)代表部大使、国連大使・常駐代表を歴任ののち2016年に退官。

17年4月からICU特別招聘教授。神田外語大学客員教授。

スペイン、アルゼンチン、モロッコ、モンゴルより叙勲。
英、西、仏語を話す。


Q1.まず吉川先生のキャリアについてお聞かせください。

私は42年間日本の外交官を務め、2017年からICUの特別招聘教授として教鞭をとっています。当時学長を務められていた日比谷潤子先生からオファーをいただき、経済学の岩井克人先生と共にICUの特別招聘教授というポジションに就くことになりました。

現在担当している科目は、一般教育科目の「国際関係ディベート」と「国際連合・国際機構論」という専門科目、そしてICUの大学院で新たに開始された外交・国際公務員養成プログラムDIPSの中に位置付けられている「国際関係と外交」という科目です。加えて毎年5名前後の大学生と1、2名の大学院生の卒論・修論の指導を行っています。

ICU以外には、神田外国語大学にて客員教授として講義をしたり、新聞やテレビなどメディアへの対応もしています。またこの5年間に50回を超える講演会を行いました。他にも模擬国連全米派遣団の顧問を務めており、推薦状の作成や資金集めのお手伝いをしています。

Q2.加えてLeaders pour la Paix (リーダーズ・プー・ラペ) というグループにも所属をされているとのことですが、このリーダーズ・プー・ラペとはどのような活動なのでしょうか。
これはフランスの元首相であるジャン=ピエール・ラファラン氏が主宰するグループで、私はこのグループ唯一の日本人メンバーとして活動をしています。最近の多くの国での動きを見て世界がバイラテラルな世界になってしまうのではないかという危機感から、世界のマルティラテラリズムをどのようにして強化できるのかという切り口で、地域を対象にした活動をしたり提言を出したりしています。現在はコロナウイルスの影響で対面で集まることができないのですが、オンラインで会合を開いています。アメリカの現国務長官であるトニー・ブリンケン氏もメンバーです。彼は非常にフランス語が上手です。

このリーダーズ・プー・ラペの活動を通して考えるのは、多くの国に友人のネットワークを持つことが非常に大切であるということです。最近ではミャンマーで軍事政権のクーデターが起き、ミャンマーでNGOを主催する女性メンバーが活動できなくなっています。どういう支援ができるかも議題の一つです。メンバーには元首相やユネスコ事務局長など有名な方がおられるので、そういった方々の意見を聞くのが、私にとっては有益です。

Q3. 吉川先生は社団法人「国連平和の鐘を守る会」の顧問も務められていますが、この活動についても教えていただけますか?

はい、これはニューヨークの国連本部に設置されている「平和の鐘」Peace Bellの教えることを普及しようという団体です。日本が国連に加盟した1956年の2年前、四国の愛媛県宇和島に住み県会議長を務めておられた中川千代治氏が、敗戦後、今後平和国家として生きる日本として、何かシンボリックなことをしたいとの思いで「平和の鐘」を国連に送る運動を始められました。中川氏が世界中に手紙を送り世界中の貨幣を集め、その貨幣を溶かして作ったものが国連に寄付された平和の鐘です。さらに平和の鐘が納めてある鐘堂の周りは、2000年に日本の寄付により立派な日本庭園が造られています。国連の中庭に日本から寄付された平和の鐘と庭園があるのです。

国連では毎年、国連総会が始まる9月に国連事務総長と国連総会の議長がその鐘を撞いて平和を祈願するセレモニーがあります。他国も絵画や彫刻など様々なものを国連に寄贈していますが、それらはどれも目で見て鑑賞をするものです。他方で日本が寄付した平和の鐘は実際に使われている寄贈品です。しかしその平和の鐘は雨風で痛んだりもするので修復しなければなりません。修理するための資金も必要です。平和の鐘を守る会は、この平和の鐘から発せられる平和のメッセージを日本および世界で広めようとしている団体です。

現在は中川千代治氏の娘さんである高瀬聖子さんが会長をされていて、全国各地で平和の鐘に関する講演をしたり平和の鐘を外国に送る活動をしています。

Q4.外交官を退官された後も幅広いフィールドでご活躍されていることを知ることができました。ありがとうございます。吉川先生はICUご卒業後外交官を42年間務められましたが、そもそもなぜ外交官を志されたのでしょうか。

高校3年次にアメリカンフィールドサービス(AFS)という制度でアメリカに留学したことがきっかけです。私は奈良県の田舎で生まれ育って、周りに外国人や英語を話せる人は誰もいませんでした。ですが畝傍高校に入学して、末吉高明さんという一つ年上の高校の先輩がAFS奨学金の制度を使ってアメリカ留学を目指しておられ、私も一緒に英会話の勉強をしました。末吉さんはAFS試験に合格して渡米し、私も1年後に無事試験に合格しアメリカに渡航したのです。当時奈良県では毎年男女1名ずつの合格枠がありました。

AFSで1年間アメリカにいる時に印象的だったのは、日本だと高校生には「君はどこの大学が志望校ですか」と聞かれることが普通ですが、アメリカで聞かれたのは “What would you like to do when you get back to Japan?” でした。 どの学校に行くのかではなくあなたは何をしたいのかと聞かれたのでした。最初は “ I haven’t decided yet” と適当な答えをしていたのですが、二度も同じことは言えませんよね。(笑) それらしい返事をしないといけないと思い “I want to be a diplomat.”と答えてみると皆さん「なるほど!」と納得してくれました。10回ほどそう答えているうちに、「あ、そうか、ボクは外交官になりたいんだ」と思うようになりました。自己暗示ですね。実は私は実際にdiplomatに会ったことはなく、仕事の内容も知りませんでした。

その後日本の高校に戻って学校の先生に「僕は外交官になろうと思ってます」と伝えると「君、そのためには東大に行かんとアカンやろ」と言われました。親父も、弟がまだ二人いたため、「お前は一年アメリカに留学したんだから、浪人はアカン、留年もアカン。大学を出たら就職してくれ」と言われました。それまでに大きな影響を受けた先輩の末吉さんは、畝傍高校に復学せず9月生としてICUに進学されたことを知っていたので、私もICUに行こうと決めました。ICUでは、カナダハウスに入りました。末吉さんは第二男子寮におられました。寮に入るということでも末吉さんに影響されました。

カナダハウスに入ってからは、外交官試験を受けることを周りに伝え、邪魔しないでと頼みましたが、寮でそれは通用しませんでしたね(笑)金曜日になると三鷹武蔵境に飲みに行ったりと受験勉強に関しては決して良い環境ではありませんでしたが、アメリカや香港の学生もいて、出身地も学年もメジャーも違う学生との共同生活は非常に良かったです。柔道部に入って稽古をしましたし、アルバイトも熱心にやりましたので、試験勉強に明け暮れた生活ではなかったです。今でも親しい友人は柔道部かカナダハウスですね。でもあれほど勉強したことはないです。無事4年生の時に合格し、外務省に入りました。

この経験から私が伝えられることは、自分が何かやろうという時にはそれを周りに伝えてしまう、自分を逃げられないような環境においてしまうことが重要だと思います。こっそり勉強して、試験に合格したあとで、実は勉強していたんだと明かすのは寮生活では難しいです。人付き合いが悪いと思われてしまいますから。だから「自分は受験勉強をするから、君たちと飲みに行くのは月一回だけだ!」とかね、そういう自分なりのルールを作ってみんなに言うことが友達との関係を犠牲にせずに済むのでいいと思います。寮に住みながらいかに勉強に時間を割くかが、受験勉強以上にチャレンジングだったかもしれません。(笑)

Q5.無事外交官試験を合格され外務省で42年間勤続された後、ICUの教授になられたと思いますが、これはどういう経緯だったのか教えてください。

僕は外交官としての最後のポストはニューヨークの国連大使でした。ニューヨークにはJapan ICU Foundationがあります。みなさんの奨学金などの募金活動をしていただいています。当時の学長の日比谷潤子さんがいらっしゃった時に歓迎ディナーが開かれ、大使を務めていた私はその会で日比谷さんと知り合いになりました。その後は国連大使公邸でNY在住のICU卒業生が日比谷学長を囲む会を開催したこともありました。その後外務省を退官して帰国した後に、学長から新しくできる特別招聘教授職へのお誘いがあり、経済学の岩井先生と私が任命されて、ICUに教授として戻ってくることになりました。

Q6.外交官としてのキャリアを築かれた後、ICUに戻られた時に感じたことはありましたでしょうか?

外務省で蓄積した知識や人脈を何かの形で役立てることができればいいと思っていました。ですから、ICUからお誘いがあった時には、例えば企業の顧問をするよりも、自分の経験をはるかに活かせると思って、大変喜んでお受けしました。母校で教えることができるということは、実に幸運だと日々感じています。

ICONfrontメンバー:実際に吉川先生の授業を履修しましたが、多くの教授はずっとアカデミアの中にいられる方が多い中で、吉川先生から直接実務の経験を聞かせていただけたことは学生にとって貴重な機会だと思いました。

おそらく修士号も持っていないICUの教授は僕だけではないかと思います。他の先生と学問の知識をコンピートしても無理です。しかし外交の現場で身につけたことを授業で紹介することは、自分にしかできないのではないかと密かに感じています。もう一つ私にできると思っているのは、就職活動する学生に様々な業界の知り合いを紹介することができることです。卒論ゼミ生が就職をすると、彼ら彼女たちの就職先に多くの場合知り合いがいるんです。社長や部長さん、霞が関の官僚を紹介できるんです。そこが私にできることの一つだと思います。卒業されたあとの話になってしまいますが。

ICUの楽しい生活は4年間で終わってしまうから短いですよね。ICUには、現実からちょっと離れたユートピアのような良さがあります。大学の規模が小さいからこそ様々なことが可能なのです。でもその良さは、ICUを出てからではないと気がつかないかも知れませんが。

インタビューPart1はここまでです。最後までお読みいただきありがとうございました。

続きのPart2をお楽しみに!

【吉川元偉先生の過去のインタビュー記事】

Global ICU 卒業生の声 吉川元偉

https://www.icu.ac.jp/globalicu/interviews/global-alumni/motohide-yoshikawa.html

国際基督教大学同窓会 今を輝く同窓生たち 第48回 吉川元偉

https://www.icualumni.com/interview/guest049

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